ものづくりの匠の技

小丸屋住井 訪問レポート

小丸屋住井

皆様にとって団扇とはどのような存在でしょうか。今はエアコンがあり、団扇を使われる方は少なくなっています。しかし団扇の歴史、変遷を知るともう一度使ってみたくなるかもしれません。今回はそんな団扇の源泉を生み出してきた「小丸屋住井」様の女将 住井啓子様のお話をお聞きしました。

私共住井家は千年以上前の平安時代には公家として帝に仕えておりました。菩提寺は、比叡山にあった天台宗長厳寺といいましたが、その後、浄土宗長厳山常安寺となって黒谷に移りました。さらに1570年頃に伏見・深草に移転し、この時に住井家も常安寺と一緒に深草に移り、深草から御所まで牛車で通っていたといいます。その頃の深草は公家の別荘地となっており、周辺には上質な真竹の竹藪が広がっていたようです。時の帝・正親町(おおぎまち)天皇より、「伏見深草の真竹を使って団扇を差配せよ」との命を受け、深草の人々に指示をして団扇づくりを始めました。この歴史はお寺様が代々口伝で伝えて下さっていたことが元となっております。命を受けて約50年後、団扇作りも確立し職人さん達も増え差配する為にも団扇製造も行うようになったのが、寛永元(1624)年で、それが小丸屋の創業となります。

小丸屋住井

源氏物語 団扇

小丸屋では、日本画の明治時代になると、京都の花街の芸妓さんや舞妓さんの名前を入れた団扇をお世話になった方々に配る習慣が生まれ、その注文を受けて作るようになりました。この団扇は、深草うちわの中の丸みのあるものが特徴です。舞妓さんと芸妓さんを表す「京」と、小丸屋の「丸」で「京丸うちわ」と名付けました。夏になると、芸妓さんや舞妓さんがお世話になったお茶屋さん、お料理屋さん、お客さんなどに配っておられる団扇で、京都の店先に飾られているのを見かけることがよくあります。(左の団扇)

源氏物語の世界観を表現した日本刺繍による団扇は芸術性の高いものとして評価を受けています。(右の団扇)

作家さんなどに作品をご提供いただき、小丸屋にしかない団扇も多く作っております。いろいろな方からいろいろな相談も受けており、その相談を受けることで、新しい素材や技術を使って団扇を作ることも考案してきました。

まとめ

残すべきは残し、変えるべきは変えていく。そこの伝統が生まれるのです。

 

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